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日常生活やスポーツにおける身体の使い方について、いろいろ考えたことを整理してしばらく寝かせておくためのブログです。
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少年スポーツの目的は、勝ち負けにこだわることよりも、将来のための心身の土台づくりや人間形成の場である。
それが一般的な価値観だろうし、私も特に深く考えずに、そう思ってきた。
しかし、最近いろいろなことがあって、そのことについて疑問も感じ、もう一度しっかり自分の考えを持たなければならないと感じているので、ここに書き留めておく。

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少年スポーツにおいて、勝ち負けにこだわることは良くないことなのだろうか?

確かに、「勝った・負けた」という結果だけにこだわり、一喜一憂するのはあまり意味がないとは思う。
少年時代のスポーツでの勝ち負けは、その時点での状況にすぎなくて、今後もその状況が続くとは限らない。
「勝った」という結果だけが全てだという価値観が、スポーツが上手い・強いということが自分が優れている人間だと勘違いしてしまうことにもつながりかねない。
陸上競技で言うと、速い子が遅い子を馬鹿にするようなものだ。
走るのが速いのはすごいことだけど、エライわけではない。
それなら、犬や猫のほうがエラクなってしまう。
自分より弱い子に勝って満足するのであれば、その勝ち負けには何の価値もない。

ただ、同じく勝ち負けにこだわっていても、それが「勝とう」とする強い意思を形成しているのであれば、話は違う。
「勝ち負けにこだわらない」は「負けてもいい」にすり替わりやすく、そうなれば、勝つための努力も工夫も不要だ。
「負けてもがんばったんだから」というのは、勝つために頑張ったけど負けてしまった後に言う言葉だ。
勝とうとする意志のない人が、「勝ち負けにこだわらない」と言うのは単なる言い訳だ。

「勝ちたい」という欲求は誰でも(その強弱はあるにせよ)、持っているはずだ。
しかし、それが「勝とう」という意思となり、さらに勝つために行動を起こさなければ勝てない。
勝とうとして努力した過程はたとえ負けても自分の財産となるが、勝つ気のない努力(?)はただ「がんばった」という自己満足だ。

では、「勝ちたい」が「勝とう」になるためには何が必要か。
私は、表題の「『勝ち』の味」を知ることだと思う。
その競技で何かいい思いをすれば、きっと「勝とう」という意思が生まれると思うのだ。
そのために指導者は、子供たちに勝たせてあげなければならない。
もちろん「勝ち」(=いい思い)の定義はそれぞれだ。
試合の勝ち負けだけでなく、自己ベスト記録更新などもその一つだと思う。

「勝った・負けた」という結果だけしか見ない指導者はダメだと思う。
しかし、勝たせてやろうという気持ちも大切なのではないだろうか。
「勝ちの味」を知ることで、子供たちはもっと貪欲になるだろうし、勝とうとする意志も生まれるだろう。
勝つための努力を重ねることが子供たちの心身の成長にも役立つはずだし、将来もスポーツを続けてゆく原動力にもなると思う。
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【このブログについて】
スポーツのパフォーマンス向上や活動的な生活を送ることを目指して、身体の使い方やその関連の事柄を研究します。そして、その過程をブログというメディアに残してゆくことで、何かの足しになればと思っています。

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1971年生まれ 男
元陸上競技400mハードラー

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